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経営随想

「旧金子家住宅」をちょっと楽しく見てみよう!

金子 敬司
(金子地所株式会社 代表取締役)
 自分が住んでいた住宅が文化財に指定された経験をお持ちの方はあまりいないのではないだろうか。金子家住宅が秋田市の有形文化財に指定され、一般公開が始まった時に率直に感じたことは、「もう、うちのものではないのだ」という一抹の寂しさと「将来金子家が衰退しても、名前と家は残るな」という安心感であった。
 今回、当社の経営とは直接的な関わりはないのだが、テーマは自由とのことなので、旧金子家住宅にまつわるエピソードや思い出を現地解説とは違った視点で書いてみたい。
私は昭和44年10月生まれ、昭和63年3月に高校を卒業し、大学進学の為上京するまで18年間この家に住んでいた。

<概要>

 創業当時の建物は、明治19年の大火「俵屋火事」で土蔵を残して焼失、明治20年頃に現在残る建物が建築された。土蔵は江戸末期の建築と伝えられる。平成8年に父:榮一より秋田市へ寄贈、平成9年に秋田市指定有形文化財に指定された。江戸時代後期~明治期の秋田型伝統的町家の雰囲気や建築様式を今に伝えている。

Episode1 <天水(てんすい)甕(がめ)>
・火事に備えて、主屋の屋根に水を入れた甕を置いた(写真参照)。ドイツの建築家ブルーノ・タウトは著書の中で「Water Vessel on Top of the Roof at Akita」と紹介している。
・私が子供の頃は、土蔵裏に割れた天水甕がひっそりと置かれていた。
・凍結による破損を防ぐため、冬前に当時の社員が屋根に上り甕を逆さまにしていた。
・あまり知られていないが、藤田嗣治の大壁画「秋田の行事」の中に天水甕ののった屋根が描かれている。これは金子家住宅なのか否か。正解は不明だが、木材の色が違うことから金子家住宅ではない可能性が高い。秋田市には、金子家住宅以外にも天水甕を置く建物がいくつかあったようだ。
・当時の秋田にはこのような大きな甕を制作している窯はなかった。島根県の石見(いわみ)焼(やき)の甕と色、形、材質が似ていることから、北前船で取寄せたのではないかと推察できる(あくまでも一つの仮説)。

Episode 2 <電気風呂>
 叔父:健三が高校生の頃(昭和35~36年頃)普段通り風呂に入った時のこと。当時の風呂は土蔵の北側、現在はねぶり流し館(秋田市民俗芸能伝承館)の敷地内に位置していた。何となくビリビリとしていたが、気にせず入浴していると、だんだんとビリビリが強くなり、とうとう入ることが出来なくなってしまった。
 初めは家人も信じなかったが、次第に「これはおかしい!」ということになり、東北電力の方に来てもらい原因調査が始まった。家の内部から、外部~周辺部へと調査は進み、最終的には通町側(現在の通町郵便局付近)の電線が切れていることが判明した。
 当時の金子家の家屋はかなり大きく、通町側の屋根と大町側の屋根は繋がっており、風呂釜と屋根は金属製の煙突で繋がっている。当時の風呂釜は浴槽に付いていたことから、漏電の電気が浴槽内に流れてきたと考えられる。
 この時漏電に気付かなければ、金子家住宅は焼失していたかも知れない・・・。

Episode 3 <欄間>
・欄間とは、天井と鴨居との間に設けられる採光、通風の為の開口部で、障子、格子、透かし彫りの板などをはめて装飾も兼ねるもの。
・旧金子家住宅にもいくつか欄間が残っているが、特に見ていただきたいのは、中の間と「おえ」(部屋の名称)の間の欄間で、ここには蝙蝠が彫られているのだ。
・中国では、蝙蝠の「蝠」は「福」と同音であり、慶事、幸運のしるしとされた。また日本でも、「こうもり」→「こもり」→「子を守る」とか蝙蝠の住む家は火事にならないとか、害虫を食べてくれることなどから縁起が良いとされていたようだ。
・金子家住宅にも、かつては土蔵と主屋の間に蝙蝠が住んでいたそうだ。ちなみに母:悦子は土蔵扉上部で白蛇(こちらも縁起が良いとされる)を見たことがあるのだとか。私は子供の頃庭でごく普通の青大将なら見たことがある。
・中の間から蝙蝠に光をあてると、「おえ」の白壁に光の蝙蝠が映し出される。電気の無い時代に蝋燭の光で揺れる蝙蝠が壁に映っている様子を想像してみるのもまた面白い。
・実のところ蝙蝠の件は、私は居住中には知らずに最近になって知ったことである。

Episode 4 <土蔵>
・先述の明治19年の俵屋火事にも焼けずに残った貴重な蔵で金子家の守り神的建物。現在は本蔵のみ残るが、私が子供の頃は本蔵のほかガッコ蔵、道具蔵、米蔵と4つの蔵があった。ただ当時、蔵の呼び方は知らなかった。
・祖父:文蔵が元気な頃は、蔵は子供が悪さをした時のお仕置き部屋としても使われた。今の世であれば児童虐待と言われそうだが、要は子供を閉じ込めるのである。父:榮一はじめ叔父:健三、兄:茂も閉じ込められたのだそうだ。おのおの漬物の甕に小便をひっかけたり、店の商品をびりびりと破いたりして抵抗したようだが、更に祖父の怒りをかっていたことだろう。
ちなみに私は素行が良かったからなのか、祖父が年を取ったせいなのかは不明だが、幸い閉じ込められた経験はない。
・昭和40年頃までは、火事に備えて水で溶いた泥を土蔵前に置いていた。非常時に扉を閉めて泥で目張りをするためだ。当時勤務していた方にきくと当番制で泥が乾燥しないように注意していたそうだ。
・昭和58年の日本海中部地震の際は、土蔵南側の土壁が崩れて、通路を塞いで通ることが出来なくなったことを覚えている。

Episode 5 <通り土間>
・玄関から蔵の前まで続く幅約1.5mの通路。商家の特徴の一つで、土蔵と店舗との荷物の出し入れなど、土足で通行する必要性から設けられた。土間に沿っていろいろな部屋が配置されている。
・私が子供の頃は、かけっこの練習場所として活用した。玄関から土蔵前まで何秒で走れるか、よく母に計ってもらったものだ。今考えると特にストップウォッチを使うでもなく時間は随分いい加減だったように思う。
・昭和20年代だと思われるが、旧雄和町相川(当時の町村名は違うかもしれない)の農家の方が馬車で肥料用に屎尿を集めに来ていた。当時の便所は蔵の西側(玄関からみると奥の方)にあり、屎尿を汲んだ桶を通り土間から外に運び出していた。月に1~2度早朝集めに来ていたようだが、叔父は時々この強烈な臭いで目が覚めたそうである。

Episode 6 <持ち送り>
・持ち送りとは軒や庇(ひさし)など張り出した部分を支えるために壁や柱などに取り付ける補強材。装飾が施されることが多い。
・持ち送りの名称も今回初めて知った。
・中高生になると頭がちょうど持ち送りの高さになるため、通り土間から自転車を出して外出する際、私たち兄弟は皆持ち送りに頭をぶつけたものである。
・あまり見ることがなくなった持ち送りではあるが、実は弊社のある通町商店街にもみられる。佐野薬局さんの本店にあり、おそらく通町の拡幅で本店を建て替えたときに旧建物から取り外して設置したのであろう。旧金子家住宅を見学される際には、是非通町にも足を延ばして見学していただきたい。(旧金子家住宅から佐野薬局さんまでは徒歩1分)佐野薬局さんの持ち送りの方が装飾が凝っているのが分かる。

<その他>

・現在旧金子家住宅の和室と土蔵は貸出している。趣味の教室や少人数の集まり、作品展示や演奏会に是非ご利用いただきたい。詳しくは秋田市民俗芸能伝承館HPへ。
・秋田県立博物館(秋田市金足)の人文展示室には秋田の商家を復元し展示してあるのだが、実はこの商家は金子商店がモデルである。
・金子家の仏間に現在も「小欲知足」(欲、小にして、足るを知る)と書かれた額がかけられている。「欲張って商売せずに、自分には十分であることをわきまえよ」という意味とのこと。子供の頃から飾ってあったのだろうが、残念ながら全く気が付かなかった・・・。

<最後に>

 秋田の人は、郷土の宝、地元のいいところを見ない、当たり前すぎて気が付かない、と言われることがある。かく言う私も藤田嗣治の「秋田の行事」すら、いつでも見られるからとまともに見ていない。かえって転勤族の方が秋田の見どころや文化について詳しくなっていたりするほどだ。自戒の念も込めて、秋田の人はもうちょっと地元の宝やいいところに目を向けよう。子供たちにもそれを見せ、語ろう。
 これを機会に、是非「あきた経済」片手に旧金子家住宅、ねぶり流し館、通町商店街、赤レンガ館などを散策していただければ幸いです。 
 また、今回自分の家を他の人に解説してもらうという面白い経験もさせていただきました。秋田市民俗芸能伝承館の進藤満雄様には多岐にわたっていろいろと教えていただきました。この場を借りて御礼申し上げます。

(会 社 概 要)

1 会社名 金子地所株式会社
2 代表者 代表取締役 金子 敬司
3 所在地 〒010-0912 秋田市保戸野通町4番24号
4 電話番号 018-863-2761
5 FAX 018-823-2037
6 URL http://www.kanekojisho.com/
7 設立年月 昭和31年11月
8 資本金 2,000万円
9 従業員 5名
10 事業内容 不動産賃貸・売買・仲介・管理
11 社是 「小欲知足」(本文参照)
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